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日支外交文書ニュース・2017/1~ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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お世辞を勘違いした鄧小平! |
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2017・12・20 【外交文書公開】 産経ニュース 胡耀邦総書記「長老引退を」 中国、鄧小平氏と人事で温度差 |
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「記事内容」 外務省が20日公開した外交文書では、1987年の第13回中国共産党大会について、長老格の引退をにらんだ指導部の若返り方針を巡って、最高実力者の鄧小平氏と胡耀邦党総書記の間に「温度差」があったこともあらわになった。 それぞれ86年11月に中曽根康弘首相と個別会談した際、70歳の胡氏は「年寄りを引退させる」と若返りに意欲を示した。 82歳だった鄧氏は自らの進退に関して「退職を考えているが、反対する人が多すぎて困難にぶつかっている」などと話した。 胡氏は、中曽根氏との会談の約2カ月後に失脚した。 専門家は「意見の違いがあったのではないか。十分な意思疎通を欠いていた可能性もある」と指摘している。 若手登用を巡って、鄧氏は中曽根氏との会談で 「党大会で一歩踏み出すだろうが、とても完成しない。(97年の)15回党大会で完成したい」と性急な交代に否定的見解を示した。 「自分が成し遂げられるものではないし、胡耀邦か趙紫陽(首相)がやり遂げられるものでもない」とも強調。 その上で、自らの進退を巡る現状に言及した。 |
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時の総理は日本人の命よりレガシー作りが最優先! |
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2017・12・20 【外交文書公開】 産経ニュース 日朝貿易へ「用意ある」中曽根康弘首相、1986年訪中で中国に提起 |
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「記事内容」 中曽根康弘首相が1986年11月に訪中して中国共産党の胡耀邦総書記と会談した際、中国との国交樹立を希望する韓国の意向を伝えていたことが、20日公開の外交文書で明らかになった。 橋渡し役を果たそうとすると同時に、日本と国交がない北朝鮮との貿易に向けても「用意がある」と表明し協力を求め、中韓と日朝の同時並行的な関係改善を提起した。 胡氏は、いずれの提案にも、希望に沿えないとの考えを示した。 日中首脳会談は86年11月8日、北京の人民大会堂で行われた。 9日付極秘公電によると、中曽根氏は 「韓国首脳から『中国との国交、それに至らぬとしても、交流を拡大するよう希望していると伝えてほしい』と言われた」と述べた。 中韓の貿易や通商代表部の相互設置という希望も伝達。 さらに、中韓貿易などの枠組みが整うなら「日朝間も、同様のことを行う用意がある」と明言した。 胡氏は、日朝の提案に関し実現は難しいとの認識を示した。 ただ 「北朝鮮に漏らし、感触を聞いてみる」と努力する姿勢を見せた。 韓国首脳の意向については 「対中改善の願望は良いものだ」としつつ 「(中国が了承するには)北朝鮮や他の社会主義国にも受け入れられなければならない」といった言い方で断った。 ※シナは共産主義国家の勢力拡大が基本、日韓の北朝鮮進出を了解する訳がない。 しかし、中曽根政権下、北朝鮮は既に日本人拉致を実行してたのだが・・・日本政府は拉致を無視し日朝国交正常化を描いていたとは呆れるばかりである。 拉致が発覚する前、故・金丸信や故・土井たか子始め日本の多くの政治家がいそいそと国交も無い北朝鮮往来を繰り返していたが、やはり北の利権漁りをしていたのであろう。 彼等は裏で何を約束していたのだろうか? 所で、中曽根康弘は朝鮮人とのネット情報があるのだが・・・真偽は不明! |
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アメリカより先に仕掛けて騙された日本! |
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2017・12・20 【外交文書】 産経ニュース 脅威にさせない協力を 中国近代化で日米模索 1979年 |
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「記事内容」 中国が改革・開放政策に転換した直後の1979年、中国経済を日米両国に依存させ、将来脅威にならないように、日米政府が官民を挙げた協力を模索していたことが、20日公開された外交文書で明らかになった。 中国はその後、急速な経済成長を続け、国内総生産(GDP)で日本を抜いて米国に次ぐ世界2位に躍り出た。 外交、軍事面も含め存在感は増す一方で、当時の懸念が現実化している形だ。 外交文書によると、訪米した園田直外相は79年4月6日、バンス国務長官と会談し、中国を巡る日米の権益争いが太平洋戦争につながった教訓から 「中国の近代化に協力するに当たり、日米が協力すべきだ」と述べた。 具体的には中国の輸送、石油・ウランなどの資源開発、通信・電力分野を列挙。 日米の協力に加え 「日中経済協会のような機関を米国内にも設立し、この間で話し合わせてはどうか」とし、双方の民間団体にも中国経済の近代化支援を担わせるべきだと訴えた。 ※日米が共にシナに騙された! 日本の政治家はシナ人と朝鮮人を知らな過ぎ、これで外交が出来る訳が無い! |
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シナから騙された日本の無能な総理! |
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2017・12・20 【外交文書公開】 産経ニュース 日中、碑文の調整手間取る 北京の交流センター |
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「記事内容」 中曽根康弘首相の中国訪問時に定礎した「日中青年交流センター」(北京市)に設置する記念碑を巡り、両国が碑文をどう書くかで調整に手間取った実態が浮かんだ。 首相の1986年11月の訪中に際し、中国側の要請で記念碑建立が決まり、首相と中国共産党の胡耀邦総書記が定礎式で碑文を揮毫することとした。 20日公開の外交文書によると、日本が日中関係4原則の 「平和友好、平等互恵、相互信頼、長期安定」を4単語のうち両首脳が二つずつ書くことを提案し、了承された。 ところが、訪中1週間前になり、中国側は 「総書記に確認したら、二つずつ書くと見た目が良くないとの意向だった」と変更を要請。 それぞれが四つ全部を書き、記念碑の両面に刻む案を示した。 当日の出来栄えが悪かった場合に備え、事前に書いたものを双方が用意することも求めた。 変更案は最終的に首相の意向で承諾。 ただ首相は事前に用意せず、定礎式での揮毫を使う方向で進めることになった。 ※シナは「平和友好、平等互恵、相互信頼、長期安定」どれ一つとして約束を守っていないが、日本だけが守ろうと努力している。 シナ人相手に外交音痴、馬鹿丸出しの日本政府外交の様を晒している。 シナ利権、いくらバックされたのか? ゼロとは言わせん! |
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日支=シナ首相初来日 |
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2017・1・12 産経ニュース 【外交文書】 外務省「日本を刺激する発言は訪日成果損なう」尖閣問題言及に懸念 王貞治氏への始球式検討 1980年、中国首相の初来日 |
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「記事内容」 日中国交正常化後、中国首相として初めてとなる1980(昭和55)年5月の華国鋒首相の来日を前に、政府が沖縄県・尖閣諸島に関し、中国側に「(華氏が)いかなる発言をされるかは非常に微妙な問題」と強い懸念を伝えていたことが、12日公開の外交文書で分かった。 80年4月17日付の極秘公電によると、外務省は在日中国大使館との事前打ち合わせで「日本側を刺激するような発言を(記者会見で)されると、訪日の成果を大きく損なうことになる」と表明。 中国側は「本国に報告する」と答え、実際に尖閣を巡る発言はなかった。 同年5月22日付の極秘公電では、右翼が反発するとの懸念から、天皇訪中について言及しないよう、事前に申し入れていた。 外務省は、国民が華氏の姿を見る機会を設けるため、後楽園球場で王貞治選手を打席に始球式を行うことも検討。 警察当局が「(事前に)外務大臣の辞表を持って来い」と猛反対し、NHKホールでの講演実施に落ち着いた。 ※参考 華国鋒は東京での公式行事のあと、京都市嵐山の亀山公園に前年に建立されたばかりの周恩来の詩碑を訪問している。 なお、同年7月にも大平正芳首相の葬儀参列のため、再び訪日している。 |
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日支=シナが日本から経済支援を引き出そうとした頃 |
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2017・1・12 産経ニュース 【外交文書】 自衛力増強「反対せず」中国共産党・胡耀邦総書記、日本との国力差意識か |
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「記事内容」 1983(昭和58)年11月に来日した中国共産党の胡耀邦総書記が、中曽根康弘首相との会談で「日本が適当に自衛力を増強させることに反対しない」と伝えていたことが、12日公開の外交文書で分かった。 78年の平和友好条約締結後、円借款を柱とした日本による経済支援が本格化。 圧倒的だった日本との国力差や胡氏自身の親日路線もあり、中曽根氏への融和的対応になったとみられる。 83年11月24日付の極秘文書によると、同日の会談で中曽根氏は、冷戦下におけるソ連の脅威を理由に「憲法の範囲内で必要な自衛力を整備する」と説明。 同時に「他国に攻め込むような力は絶対に持たない」として、現行憲法下での防衛力整備に理解を求めた。 胡氏は「自衛力が弱いとの首相の認識を信じる。いかに日本が自衛力を拡大させようと、中国と戦うことにはならないと信じる」と応じた。 ※日本はシナが豹変する事を見抜けず、間抜けな外交をやっていた。 【外交文書】をスクロールし検索すれば、一連の【外交文書】が表示される。 |
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