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日露戦争ニュース・2018/12~1before | |||||||||||||||||||||||||||
関東軍は敗退と知らされていたが、大嘘! 実はソ連が敗退していた! | |||||||||||||||||||||||||||
2018・8・13 (1/4ページ) 中国総局長 【藤本欣也の中国探訪】 産経ニュース ノモンハン事件80年目の夏 かつての戦場は…“日本軍大敗”史観の宣伝いまも |
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「記事内容 中国とモンゴル国境付近に、かつて日本軍とソ連軍が激戦を交わしたノモンハンがある。 現在は牛や馬が放牧された草原が広がっているにすぎない。 戦闘発生から80年目の夏、中国人観光客でにぎわう内モンゴル自治区の戦場跡を訪ねた。 □ □ 日本でノモンハン事件と呼ばれる戦闘は、1939(昭和14)年の5月から9月まで続いた。 日本軍・満州国(当時)軍と、ソ連(同)軍・モンゴル人民共和国(同)軍が参戦、モンゴルでは「ハルハ川戦争」、中国では「ノモンハン戦争」と呼ばれている。 発端は満州国とモンゴル人民共和国の国境をめぐる対立で、それぞれの国を後押しする日本とソ連が介入し本格的な武力衝突に発展した。 戦場は現在のモンゴルと中国にまたがっていて、激戦が繰り広げられたハルハ河畔はモンゴル領内にある。 中国側の戦場跡は草原が広がるばかりだった。 内モンゴル自治区のハイラルから車で3時間余り、二百数十キロ離れた草原の真っただ中に 「ノモンハン戦役遺跡陳列館」がある。 現在、陳列館は改装工事中で、土産物店しか開業していない。 訪れたのは7月下旬の平日だったが、100人近くの中国人観光客が押し寄せていた。 周辺の草原には戦車や軍用機が無造作に展示されているだけ。 観光客たちは中国国旗が掲げられた戦車によじ登ったり、砲身にまたがったりして写真を撮っていた。 「とにかく大草原を見たかったんです。ノモンハン戦争? ここに来て初めて知りました。本当に日本という国は中国のあちこちに戦争の足跡を残しているんですね」 黒竜江省から来た女子高校生(18)は楽しそうだった。 □ □ 土産物店にノモンハン事件の説明板があった。 つづく □ □ そもそも、中国がノモンハンに同陳列館を建設した目的は何か-。 中略 ノモンハン事件発生から80年目の夏。 かつての戦場は、その歴史さえ知らない中国人観光客たちが訪れて牛や馬と戯れる草原と化していた。 |
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完勝! |
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2018・8・5 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇の87年】 産経ニュース アジアを奮い立たせた勝利 「太陽の国が、明るい光を与えた」 |
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「記事抜粋」 日本海海戦(6) 明治38年5月28日、極東の太陽に照射され、日本海を航走するバルチック艦隊は、わずか5隻に激減していた。 空は澄みわたり、敗残の艦隊を隠す靄(もや)ひとつない。 指揮をとるロシア第3太平洋艦隊司令長官のネボガトフは、絶望的な気持ちだっただろう。 前日の激戦でバルチック艦隊の旗艦スウォーロフは沈没し、頭部に重傷を負った司令長官ロジェストウエンスキーはネボガトフに、 「指揮権を譲る。ウラジオストクへ回航せよ」との命令を発した。 そのウラジオストクまであと一昼夜の距離。 だが、奇跡でも起きない限り無事には到着できまい。 むろん奇跡は起きなかった。 28日午前10時30分、ネボガトフが率いる戦艦2隻、装甲海防艦2隻、巡洋艦1隻は、島根県竹島沖で東郷平八郎の連合艦隊第1、第2、第4、第5、第6戦隊に包囲された。 戦艦と巡洋艦だけで計20隻以上、加えて俊足の駆逐艦も多数いる。 圧倒的な兵力差を見せつけられたネボガトフは、座乗艦のマストに戦闘旗ではなく、白旗にみたてた白色のテーブルクロスを掲げた。 ときに午前10時53分、バルチック艦隊の白旗掲揚と機関停止を確認した東郷は、全艦隊に戦闘停止を命令。 ここに日本海海戦は幕を閉じたのである(※1)。 つづく × × × 日本海海戦の勝利に、日本中が沸き立ったのは言うまでもない。 海戦の様子は裕仁親王(のちの昭和天皇)の耳にも届き、小さな胸を高ぶらせた。 つづく × × × ロシア皇帝ニコライ2世がアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋(あっせん)を受け入れ、日露講和のポーツマス条約が調印されたのは、日本海海戦からほぼ3カ月後の9月5日である。 中略 日露戦争の勝利により、日本は列強の一員として歩み出した。 しかしそれは、新たな国際摩擦への一歩でもあった。 裕仁親王、4歳の夏である--。 ◇ (※1)ネボガトフは当初、降服を示すXGEの国際信号旗を掲げたが、連合艦隊の砲撃が止まなかったため、白色のテーブルクロスを掲揚した。 一方、連合艦隊側ではXGE旗の意味が分からず、白旗掲揚をみてようやく降服の意図を悟った。 だが、敵艦隊が陣形を崩さずに航走を続けているため、戦闘の意思ありとみて砲撃を止めなかった。 このとき先任参謀の秋山真之が東郷に対し、 「長官、武士の情けです」といって砲撃中止を進言したといわれる。 しかし国際法に詳しい東郷は、敵艦隊の機関停止を確認してはじめて 「撃ち方やめ」を命じた。 (※2)広瀬中佐とは、連合艦隊による旅順閉塞作戦(明治37年2~5月)で戦死した広瀬武夫。 明治維新以降、初の 「軍神」として神格化された。 (※3)日本の勝利をアジアの諸民族は歓迎したが、その後、日本が対外強硬路線に傾いたため、急速にアジアの支持を失うことになった。 ※日本人とて人間、世界一と謳われたバルチック艦隊を撃破! ご時世、致し方あるまい! 日本は今、人類の敵、日本人と台湾人の敵シナにどう立ち向かうのか? 脅威は間違いなく迫っている。 インドネシアの教科書にも 「日本の支配地においては日本化が広く行われたが、これはアジアにおいて西洋帝国主義の地位に取って代わろうするためであった」などと、批判的に書かれている。 インド初代首相のネルーは、日本の勝利にいかに勇気づけられたかを著書に記す一方、 「(日露戦争の結果)少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった」と、日本への失望を痛烈に書き残している。 【参考・引用文献】 ○軍令部編『明治三十七八年海戦史』 ○同『極秘明治三十七八年海戦史』 ○田中宏巳著『東郷平八郎』(筑摩書房) ○小笠原長生編著『聖将東郷全伝2巻』(国書刊行会) ○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻 ○大江志乃夫著『世界史としての日露戦争』(立風書房) ○石井和子監訳『世界の教科書シリーズ20 インドネシアの歴史-インドネシア高校歴史教科書』(明石書店) ○平間洋一編『日露戦争を世界はどう報じたか』(芙蓉書房) ※ロシア人は革命後(ソ連)、日露戦争の敗戦に学び、大日本帝国始めアメリカなどにコミンテルンを送り込み情報工作(スパイ)を開始したのであろう。 今の日本政府(反日自民党)は歴史に学ぼうとせず、シナの一方的なスパイ工作にやられていると言える。 アメリカさえ目覚めたと言うのに・・・日本はどうなる事やら! |
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いざ決戦へ! |
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2018・7・29 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇の87年】 産経ニュース いざ決戦へ、錨を上げた連合艦隊 「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」 |
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「記事抜粋」 日本海海戦(4) 明治37年8月11日、前日の黄海海戦で敗れたロシア旅順艦隊18隻のうち9隻が旅順港に戻ってきた。 主力の戦艦はいずれも艦影が変貌するほど破壊され、その惨状に、旅順のロシア軍関係者は言葉を失った。 残留組だった海軍将校レンガートが、艦隊が帰港したときの衝撃を書き残している。 「諸艦の惨状は実に目も当てられない。自分はいまだかつてかくも大損傷を受けた軍艦を見たことがない…」 敗残の艦隊は出撃不能と判断され、その備砲は取り外されて陸戦に転用された。 また、旅順港に戻れなかった9隻のうち7隻は中立国の港で武装解除され、2隻は逃走中に自爆した。 ここに旅順艦隊は、消滅したのである。 だが、東郷平八郎がそれを知るのは4カ月後、二◯三高地の陥落により港内の敵艦が掃討され、唯一港外に逃れた戦艦セバストーポリも座礁、航行不能となったのを、東郷自ら視認した12月19日だった。 × × × その翌日、すなわち12月20日、東郷は旅順に上陸する。 敵艦隊の全滅を確認した以上、一刻も早く内地に戻り、傷ついた各艦の修理を急がねばならないが、その前に東郷には、どうしても会っておきたい人物がいた。 第3軍司令官、乃木希典(まれすけ)である。 つづく × × × 旅順艦隊を打ち破った東郷の次なる敵は、ロシアから回航されてくるバルチック艦隊(ロジェストヴェンスキー司令長官)だ。 同艦隊のウラジオストク入港を許せば日本のシーレーンが脅かされる。 逆に全滅すれば日露戦争の勝利に直結する。 中略 期限の26日早朝、軍令部から待ちに待った情報が届く。 敵の運送船など8隻が前日に上海港外の呉淞(ウースン)に入港したというのだ。 これで、バルチック艦隊がまだ東シナ海にいる可能性が高まった。 当初の予想通り、間もなく対馬海峡を通過するに違いない。 五島列島沖合を警戒中の仮装巡洋艦信濃丸が、 「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」との一報を打電したのは27日午前4時45分である。 いよいよ決戦だ。 旗艦三笠は錨(いかり)を上げた。 「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直ニ出動 之ヲ撃滅セントス 本日天気晴朗ナレドモ波高シ」(※2) ◇ (※1)密封命令とは、事前に渡していた封書を、指定時刻に開封して実行する命令 (※2)連合艦隊が大本営に発した明治38年5月27日早朝の電報。 先任参謀の秋山真之が起草したとされる 【参考・引用文献】 ○レンガート著『旅順・松山の歌』(新時代社) ○真鍋重忠著『日露旅順海戦史』(吉川弘文館) ○小笠原長生編著『東郷元帥詳伝』(春陽堂) ○小笠原長生編著『聖将東郷全伝』2巻(国書刊行会) ○水野広徳著「軍議 日本海々戦秘録」(雑誌『中央公論』昭和2年6月号所収) ○軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』第2部1巻 |
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旅順艦隊 |
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2018・7・28 (1/5ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇の87年】 産経ニュース 死闘!黄海海戦 運命の一弾が敵の司令長官を吹き飛ばした |
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「記事抜粋」 日本海海戦(3) 明治37年8月10日、難攻不落の旅順要塞に固く守られた旅順港に、幾条もの黒煙が上がった。 それまで港内の奥深くに引きこもっていたロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)の各艦が、出撃するため汽罐(ボイラー)に火をくべたのだ。 それより前の6月10日、極東ロシア軍の総指揮官アレクセーエフは、旅順艦隊の司令長官ヴィトゲフトに電報を送り、敵艦隊を撃破しウラジオストクへ回航せよと命令した。 自信過剰のアレクセーエフは、日本の連合艦隊が複数の主力艦を喪失したとの情報を得て、いまなら勝てると踏んだのである。 つづく × × × かくて錨を上げた旅順艦隊の決戦兵力は戦艦6隻、巡洋艦4隻、駆逐艦8隻。 対する連合艦隊は戦艦4隻、巡洋艦14隻、駆逐艦18隻…。 連合艦隊に分(ぶ)があるとはいえ、当時の海戦は主力艦の砲力がものをいう。 真っ向勝負の砲戦となれば、連合艦隊が勝利するにしても深く傷つき、旅順艦隊の何隻かをウラジオストクへ取り逃がす恐れもあった。 つづく × × × 10日午前6時35分、ロシアの旅順艦隊が出港したとの急報を得た東郷は、各艦に出撃を命じ、決戦が予想される海域へ急いだ。 両艦隊が旅順沖の黄海で会敵したのは12時30分。 旗艦三笠に戦闘旗を掲げた東郷は、まず主力の第1戦隊を左8点(90度)に一斉回頭し、横一列になって旅順艦隊を誘い込もうとした。 しかし、旅順艦隊が南に針路をとったため、さらに左8点に一斉回頭して縦一列となり、午後1時36分、右16点(180度)に一斉回頭、敵の進路を圧迫しつつ先頭艦を集中砲撃した。 丁字戦法である。 中略 そして、のちに 「運命の一弾」と呼ばれる三笠の12インチ砲がツェザレヴィッチの司令塔付近で炸裂(さくれつ)する。 ときに午後6時37分。ヴィトゲフトの身体は粉々に吹き飛ばされ、司令塔内の艦長、機関長、砲術長、水雷長らが全員死傷。 操舵手も舵輪(ハンドル)を握ったまま絶命し、ドオッと倒れた際に舵輪が回転、操舵不能となった旗艦ツェザレヴィッチは左に旋回しながら後続の艦列に突っ込み、大混乱となった旅順艦隊はウラジオストクへの脱出を諦めて潰走した(※2)。 東郷の運は、本物だったのだ。 しかしそれは天与のものではなく、自らの闘志が呼び込んだ運だった--。 ◇ (※1)東郷はこのとき、敵艦隊が再び旅順港に逃げ込むことを警戒しており、それと反対方向のウラジオストクへ向かう敵艦隊を利する形になった。また、連合艦隊の各艦を回頭させるタイミングが3分遅れたため、追いつくのに2時間以上かかったとされる (※2)いわゆる「運命の一弾」には2発あり、最初の1発が司令長官ヴィトゲフトを吹き飛ばし、次の1発が操舵手らをなぎ倒したとされる 【参考・引用文献】 ○軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』第1部6巻 ○北沢法隆著「再考東郷ターン」(日本海事史学会『海事史研究』第58号所収) ○外山三郎著『日露海戦史の研究〈上〉』(教育出版センター) ○野村直邦編『元帥 東郷平八郎』(日本海防協会・東郷元帥顕彰図書刊行会) |
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東郷平八郎 |
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2018・7・22 (1/5ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇の87年】 産経ニュース 戦艦2隻が相次ぎ沈没 連合艦隊は底なしの悪夢に取りつかれた |
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「記事抜粋」 日本海海戦(2) 「東郷は運のいい男でございますから」 東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢(ばってき)する際、ときの海相、山本権兵衛は明治天皇に、こう説明したと伝えられる(※1)。 とはいえ山本は、運だけで東郷に白羽の矢を立てたのではあるまい。 明治36年12月、日露戦争を目前にして編成された連合艦隊は、かつてない規模の巨大組織だ。 戦艦、巡洋艦、駆逐艦などを組み合わせた第1、第2艦隊の計55隻を擁し、その司令長官には的確果断な決断力、実行力、統率力が求められる。 山本は、高陞(こうしょう)号事件などでみせた東郷の決断力を高く買っていたのだろう。 ところが開戦当初の東郷は、不運と失策の連続だった。 × × × 連合艦隊の当面の敵は、旅順港に主力を置くロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)である。 このため参謀の有馬良橘は開戦前、まだ旅順の防備が整わないうちに港口に商船を並べて沈め、旅順艦隊を出られなくする閉塞(へいそく)作戦を立案。 決死隊を編成して決行命令を待ったが、東郷はなかなか許可しなかった。 有馬は軍令部に送った意見書で、 「東郷閣下モ未タ一言ノ(閉塞作戦の)可否ニ就(つい)テ御明言無之(これなく)…」と不満を漏らしている。 つづく × × × 開戦から3カ月たった5月中旬、東郷率いる連合艦隊は、底なし沼のような悪運に取りつかれる。 同月12日、水雷艇48号がロシアの機雷に触れて沈没、14日には通報艦宮古も機雷で沈没した。 翌15日未明、濃霧の中を航行中の巡洋艦吉野が後続の巡洋艦春日と衝突して海中に消え、艦長以下300人以上が犠牲となった。 つづく × × × ピンチのあとにチャンスありという。 主力艦の喪失は、図らずも膠着(こうちゃく)した戦局を変えた。 ロシアの旅順艦隊が6月23日、日本側の戦力低下に乗じて出港してきたのだ。 もっとも司令長官のヴィトゲフトは、連合艦隊の闘志に微塵も揺らぎのないのをみて、一戦も交えず旅順港に逃げ戻った。 この弱腰に極東ロシア軍の総指揮官アレクセーエフは憤慨し、皇帝ニコライ2世の勅命を取り付けて再度の出港を厳命する。 8月10日、今度こそ旅順艦隊は、不退転の決意で旅順港を出港した。 待ち構える連合艦隊にとって、このチャンスを逃すわけにはいかない。 東郷の運が本物かどうか、いよいよ試されるときが来たのだ--。 ◇ (※1)連合艦隊の編成直前、当時55歳の東郷平八郎は舞鶴鎮守府司令長官の職にあり、すでに海上勤務の第一線からは外れていた。 連合艦隊司令長官には、常備艦隊司令長官の日高壮之丞が任じられると思われていたが、海相の山本は日高を更迭し、東郷にかえた。 異例の人事であり、海軍内には当初、東郷の起用を疑問視する声も上がったという。 一方、その頃の日高は健康を害しており、更迭は妥当だったとする見方もある (※2)旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫中佐(死後昇進)はのちに軍神とたたえられ、杉野孫七兵曹長(死後特進)とともに文部省唱歌にもなった (※3)伊藤正徳は戦前、時事新報の海軍記者として活躍し、戦後は共同通信理事長、日本新聞協会理事長、時事新報社長、産経新聞主幹などを歴任した 【参考・引用文献】 ○軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』第1部3巻 ○伊藤正徳『大海軍を想う』(光人社) ○栗田冨太郎『旅順閉塞回想談』(啓成社) ○小笠原長生『東郷元帥詳伝』(春陽堂) ○外山三郎『日露海戦史の研究〈上〉』(教育出版センター) |
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大日本帝国を守った日本人の国家観! |
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2018・7・15 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇の87年】 産経ニュース 傷だらけの地上決戦 勝利の報に、幼い皇子も万歳した |
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「記事内容」 奉天会戦 裕仁親王が静岡県沼津の故川村純義別邸で過ごしていた明治38年2~3月、満州最古の都、奉天(現中国遼寧省瀋陽)城外の荒野では、日本軍25万人とロシア軍31万人が、およそ20日間にわたる熾烈(しれつ)な戦闘を繰り広げていた。 日露戦争の地上戦で、最大にして最後の会戦、奉天会戦である。 つづく × × × それでも、勝利は勝利である。 「奉天占領」の一報に、日本中が歓喜熱狂したのは言うまでもない。 全国各地で祝勝会が開かれ、都市部はもちろん農村部でも万歳の声が響き渡った。 つづく × × × 地上戦のクライマックスである奉天会戦に勝利しても、日露戦争が終わったわけではない。 ロシア側にはまだ、強力な切り札が残されていた。 間もなく日本近海に姿をあらわし、日本のシーレーンを打ち破ると恐れられた世界最強レベルの大艦隊、バルチック艦隊だ。 これを迎え撃つ大任を託されたのは、乃木と同様、のちに裕仁親王の帝王教育に深く関わることになる、海軍大将東郷平八郎であった--。 (※1)奉天会戦当初における日本軍の兵力分配は、 (1)新編成の鴨緑江軍(歩兵31個大隊・砲78門)と連携してロシア軍の左翼を牽制(けんせい)攻撃する第1軍が歩兵52個大隊・砲174門 (2)ロシア軍の右翼を主攻する第2軍が歩兵45個大隊・砲278門 (3)第2軍の主攻を支援すべくロシア軍の右翼に回り込む第3軍が歩兵41個大隊・砲174門 (4)敵の反撃や正面攻撃などに備える第4軍が歩兵43個大隊・砲252門 (5)第2軍の後方で待機する総予備隊が歩兵28個大隊・砲36門-という布陣だった。 だが、第3軍以外の各軍が一歩も前進できない苦境に陥ったため、会戦後半の3月6日、満州軍総司令部は方針転換し、第3軍に総予備隊3個旅団を加え、主攻を託すことにした。 もっとも予備隊投入の時期が遅すぎたため、ロシア軍を包囲、殲滅することはできなかった 【参考・引用文献】 ○長南政義編『日露戦争第三軍関係史料集』(国書刊行会) ○旧参謀本部編『日本の戦史 日露戦争〈下〉』(徳間書店) ○大江志乃夫『世界史としての日露戦争』(立風書房) ○宮内庁書陵部編『書陵部紀要』第54号所収の「木戸孝正日記」 ○永積寅彦『昭和天皇と私』(神道文化会) ○鈴木(旧姓足立)孝「天皇・運命の誕生」(文藝春秋編『昭和天皇の時代』収録) ※嘘つき安倍総理始め日本政府(政治家・役人)の戦後政治(与野党談合)は一貫して実施されている日本人愚民化政策により、日本人の国家観を奪い続けており、日本人を亡国の民にしたいのである。 |
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武士道精神・大和魂を貫いた乃木大将、天晴れ! |
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2018・7・8 (1/5ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜日掲載 【昭和天皇の87年】 産経ニュース 遂にロシア軍司令官が降服 世界が称賛した乃木希典の武士道精神 |
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「記事内容」 旅順攻囲戦(6) ロシア旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセルが、第3軍司令官乃木希典に降伏を申し入れたのは、二◯三高地の陥落からほぼ1カ月後、明治38(1905)年1月1日である。 二◯三高地陥落以降、乃木は、敵の堡塁(ほうるい)近くまで塹壕(ざんごう)を掘り進めてから突撃する正攻法を一歩進め、地下に坑道を掘って堡塁の下まで達し、大量の火薬で爆砕する戦術を採用。 それまで第3軍を苦しめていた要塞正面の永久堡塁を次々に攻略し、1日午後には旅順高峰の望台を落した。 すでに戦意を喪失していたステッセルは、もはやこれまでと思ったのだろう。 要塞陥落の吉報に国民は歓喜熱狂した。 1月3日の東京朝日新聞によれば、 「(東京)市中各区は直(ただち)に祝捷(しゅくしょう)の準備に着手し、辻々の大国旗は殊に花やかに翻(ひるが)へり、各新聞社前は常よりも十倍大の紙片に旅順陥落、敵将降伏など筆太に記して号外発行の混雑恰(あたか)も戦地の如し。 (日本橋界隈などの)家々は紅白又は浅黄(あさぎ)と白の幔幕を張り、燦然(さんぜん)花の林に入るが如し」だったという。 × × × だが、陸軍上層部の一部には、冷ややかな空気もあったようだ。 つづく × × × もう一つ、乃木の名声を不動にしたものがある。 中略 それから35年余り。 昭和15年6月22日、第二次大戦でフランスを破ったナチス・ドイツは、第一次大戦でドイツがフランスに降伏した因縁の地、コンビエーニュの森にフランス代表を呼び、降伏文書に調印させた。 それを知った昭和天皇は、こう言って嘆息した。 《何(ど)ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ、勝ツトアヽ云フ気持ニナルノカ、ソレトモ国民カアヽセネハ承知セヌノカ、アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ》(昭和天皇実録27巻124頁) ◇ (※1)機密日露戦史は、陸軍中将の谷寿夫(ひさお)が陸軍大学の教官時代、兵学講義の教科書として著作したテキスト。公刊戦史にない史料や、日露戦争従軍者らの証言も含まれ、戦史研究における資料的価値は高い。 戦前は一般に公開されなかったが、戦後にその存在が明らかになると、歴史研究者や小説家らが参考にするようになった。 昭和43~47年に産経新聞夕刊で連載された司馬遼太郎の「坂の上の雲」も、機密日露戦史を参考にしている。 ただ、著者の谷は第3軍司令部の一次史料(参謀日記など)をほとんど利用せず、多くを第3軍に批判的な軍関係者の回顧談などに依拠していた。 このため幾つか事実誤認があり、日露戦争で第4軍参謀長を務めた上原勇作(のち元帥陸軍大将)も「客観性に欠ける」などと批判していた。 なお、谷は陸軍士官学校15期卒で、二○三高地で戦死した乃木の次男、保典と同期である。 陸大教官後は国際連盟陸海空軍問題常設委員や近衛歩兵第2旅団長などを歴任。 昭和10年に第6師団長となり、南京攻略戦などに参戦した。 しかし戦後は 「南京事件」の責任者の一人としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に逮捕され、中国の南京軍事法廷に移送。 その後の戦犯裁判で谷は、 「第6師団は軍機厳正であり、事件の証拠はすべて偽造である」などと主張したものの死刑判決が下され、22年4月26日、銃殺刑に処された。 “勝者の裁き”による不当判決だが、谷は少しも取り乱さず、従容たる最期だったという。 【参考・引用文献】 ○長南政義編『日露戦争第三軍関係史料集』(国書刊行会) ○『日露戦争第三軍関係史料集』所収の「大庭二郎中佐日記」 ○参謀本部編『明治卅七八年日露戦史』(偕行社) ○和田政雄編『乃木希典日記』(金園社) ○谷寿夫『機密日露戦史』(原書房) ○長岡外史文書研究会編『長岡外史関係文書・回顧録篇』(長岡外史顕彰会)○明治38年1月3日の東京朝日新聞 ○津野田是重『斜陽と鉄血』(偕行社) ○宮内庁編『昭和天皇実録』27巻 ※今の腐った特権階級を自認しる利権を貪る政治家と木端役人に乃木大将の真似が出来ようか! 政治家や役人、大手企業の経営者の愚民化は一般国民より酷い、統治機構に携わる者の犯罪の多さからも容易に推測出来る、 不順で憐れで情けない日本国! 天皇陛下がお嘆きであろう。 |
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大和魂・よく頑張った日本人! |
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2018・7・7 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 産経ニュース 壮絶!二○三高地争奪戦 山頂は両軍将兵の鮮血で染まった |
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「記事内容」 旅順攻囲戦(5) 明治37(1904)年の晩秋、世界の耳目は極東の半島先端、旅順のロシア要塞に集まった。 この要塞への第1回総攻撃で空前の死傷者を出し、第2回総攻撃でも散々な結果に終わった乃木希典(まれすけ)率いる第3軍が、これを最後と第3回総攻撃に踏み切ったのだ。 ときに11月26日午後1時、第1、第9、第11師団の日本軍将兵が要塞東北正面の永久3堡塁(ほうるい)に突撃を開始。 日露両軍入り乱れての銃声、砲声が地に響き、天を裂いた。 第3軍が三度(みたび)失敗すれば、それまで日本軍に有利に進んでいた全体の戦局が一変しかねない。 乃木とその幕僚も、ここが天王山だと十分に理解していた。 一方、ロシア側も日本の総攻撃を見越して要塞の補強工事に努めており、万全の迎撃態勢だ。 要塞周辺は、みるみる日本軍将兵の死体で埋まっていった。 同日夜、乃木は総勢3100人余の志願兵からなる決死の白襷(しろだすき)隊を投入。 起死回生の夜襲を仕掛ける。 だが、味方識別のための白襷が却って敵の標的となり、同隊は要塞前でなぎ倒された。 最後の総攻撃も失敗に終わるかとみられた翌27日、乃木は決断した。 主要攻撃目標を、旅順港を見下ろす二◯三高地に切り替えたのだ。 この日、乃木は日記に、1行だけ書いた。 「二◯三攻撃ヲ第一師団ニ命ズ」 × × × 二〇三高地--。 この、海抜203メートルの名もなき小山は、日露戦争を象徴する激戦地として今も日本人の心に深く刻まれている。 つづく × × × 12月5日、二◯三高地はついに落ちた。 旅順港を見下ろす山頂には直ちに観測所が設置され、港内に停泊する旅順艦隊各艦を砲撃、その全滅をようやく確認できた。 中略 どこを見ても、両軍将兵の死体が散乱している。 それは、半年前に長男の勝典が戦死した南山の戦場より、凄惨(せいさん)だったに違いない。 保典の遺品が届けられた11日、乃木は漢詩を詠んで日記に書いた。 爾霊山(にれいさん)は険なれども豈(あに)攀(よ)じ難からんや 男子の功名克艱(こっかん)を期す 鉄血山を覆いて山形改まる 万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山(※2) ◇ (※1)二○三高地をめぐる争奪戦の後半、乃木から指揮権を委ねられた児玉は、重砲の一部配置転換を命じたが、それは第3軍参謀の作戦案に基づくものだったとされる (※2)日記に書かれた漢詩は「爾霊山険豈難攀 男子功名期克艱 鉄血覆山々形改 萬人斉仰爾霊山」(原文は旧漢字)。意味は 「二〇三高地が険しくても、どうして攻め登れないことがあろうか。男子が功名を立てる時、困難に打ち勝つことを決意している。山は武器の鉄と兵士の血に覆われ、形が変わってしまった。あなたたちの霊が眠る山、二〇三高地を万人は永遠に仰ぎ見るだろう」 ◇ 【参考・引用文献】 ○参謀本部編『明治卅七八年日露戦史』(偕行社) ○和田政雄編『乃木希典日記』(金園社) ○長南政義編『日露戦争第三軍関係史料集』(国書刊行会) ○日本国誠流詩吟会編『吟詠詩集-絶句編』 ※日露戦争・203高地の攻防戦は多くの日本人の血を流し多くの日本人が悲しみを乗り越えた輝かしい日本の戦争史の一幕である。 日本人は大東亜戦争の轍を決して踏んではならない! もし、戦争やると決めたなら勝利あるのみ! 先人が示した通り日本人なら座して滅びる事なかれ! |
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日本人の覚悟・大日本帝国の旅順包囲戦! |
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2018・7・1 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇の87年】 日本人必読記事! 産経ニュース 新兵器投入も総攻撃失敗… いよいよ乃木は窮地に立たされた |
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「記事抜粋」 旅順攻囲戦(4) 28センチ榴弾(りゅうだん)砲-。 日露戦争の勝敗に大きな影響を与えた、国産の陸上兵器だ。口径28センチ、砲身重量1万758キログラム、砲弾重量217~224キログラム、最大射程は7800メートルに達する。 この巨大砲は明治17~21年、イタリア人砲兵少佐の指導により大阪砲兵工廠(こうしょう)で開発され、海岸防御用の主砲として制式採用された。 日清戦争より前の、近代兵器を輸入に頼っていた時代だ。海岸防御のためには、より有効な火砲を輸入したらどうかという意見もあったが、当時陸相だった大山巌は国産にこだわった。 「国防上兵器が独立しなければ、真に国家の独立は期待されない」と考えたからである。 日露開戦時、陸軍は28センチ榴弾砲を300~400門保有し、海沿いの要塞などに固定配置していた。 ひと昔前の兵器だが、その破壊力を利用しない手はない。 ロシア旅順要塞への第1回総攻撃失敗後、参謀本部は28センチ榴弾砲を旅順に移送し、乃木希典率いる第3軍に与えることを決定。 明治37年9月上旬に6門が大連港に揚陸され、同月末までに前線配備が完了した。 第3軍参謀の井上幾太郎が日記に書く。 「(10月1日)我二十八珊(サンチ)榴弾砲の砲台完成し、本日初めて東鶏冠山、同北堡塁(ほうるい)、二龍山、松樹山及(および)椅子山に対し砲撃したるに、其(その)効果著大なるを見る」 つづく × × × 明治37年の晩秋、旅順の空に、再び戦雲が重く垂れこめた。 乃木第3軍の一斉突撃、すなわち第2回総攻撃の日が近づいてきたのである。 中略 第2回総攻撃失敗後の11月6日、参謀次長の長岡外史は満州軍参謀の井口省吾に電報を発し、 「元来種々の評判多き司令部なれば、此の際一、二の英断を敢てし共同一致を十分にするの必要なきや如何(いかん)」と、第3軍司令部の更迭までにおわせている。 乃木は、いよいよ窮地に立たされた--。(毎週土曜、日曜掲載) ◇ 【参考・引用文献】 ○佐山二郎著『日本陸軍の火砲 機関砲 要塞砲〈続〉』(光人社) ○大山元帥伝刊行会『元帥公爵大山巌』 ○参謀本部編『明治卅七八年日露戦史』 ○長南政義編『日露戦争第三軍関係史料集 大庭二郎日記・井上幾太郎日記でみる旅順・奉天戦』(国書刊行会) ○津野田是重(第3軍参謀)『斜陽と鉄血』(偕行社) |
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日本人の覚悟・大日本帝国の旅順包囲戦! | |||||||||||||||||||||||||||
2018・6・30 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇の87年】 日本人必読記事! 産経ニュース 流血無残な第1回総攻撃 戦場は日本兵の死体で埋め尽くされた |
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「記事抜粋」 旅順攻囲戦(3) 明治37(1904)年8月19日早朝、遼東半島(現中国遼寧省)の先端にある旅順の山々を、濛々(もうもう)たる黒煙が覆った。 乃木希典(まれすけ)率いる第3軍の攻城砲兵部隊が一斉砲撃を開始。 ロシア旅順要塞への第1回総攻撃が、遂に始まったのだ。 乃木は要塞の東北正面を主要攻撃目標とし、第1師団が水師営南方の堡塁(ほうるい)群などに、第9師団が竜眼北方堡塁と盤竜山東堡塁に、第11師団が東鶏冠山北堡塁などに突撃した。 だが、コンクリートで固めた近代要塞の防御力は、当時の日本人の想像を絶していた。 小銃を手に突撃した日本兵は、たちまちロシア軍の機関銃になぎ倒され、砲弾に吹き飛ばされた。 それでも日本兵は同胞の死体を踏み越えて堡塁に取りすがったが、その防壁はあまりに厚く、無慈悲だった。 この戦闘で負傷した第22連隊旗手の桜井忠温が、当時の情景を戦記文学の名著「肉弾」に書く。 「嗚呼(ああ)、何等の惨(さん)ぞ! 其の死骸は二重三重と重なり、四重五重と積み、或る者は手を敵の砲台に掛けて倒れ、或る者は既に乗り越えて、敵の砲架を握れるままに死したるあり、そして苦しき呻(うめ)き声の深き地の底より起こるが如くに聞ゆるは、畳み重なった下に在る負傷者が発したのである。勇壮なる此の突撃縦隊が、味方の死屍(しし)を乗り越え踏み越え、近く敵塁に肉薄して、魚鱗(ぎょりん)掛かりに突き入ると、忽(たちま)ち敵の精巧なる機関砲によって、攻め寄る者毎(ごと)に一々撃殺された為、死屍は数層のなだれを打って、敵塁直下に斯(か)くは悲惨なる状況を現出したのである」 戦闘は6日間にわたり、各部隊の砲弾も肉弾もみるみる尽きていった。 24日午後4時、ついに乃木は攻撃中止の軍命令を下す。 一連の攻撃で得たのは盤竜山の東西両堡塁2つのみ。 砲声の止んだ要塞周辺は、日本兵の死体で埋め尽くされた。 つづく × × × 第1回総攻撃の失敗後、乃木は強襲法を捨て、敵の堡塁近くまで塹壕(ざんごう)を掘り進めてから攻撃する 「正攻法」に切り替える。 これに対し各師団の参謀長、工兵大隊長の多くは当初、正攻法では時間がかかるうえ、敵前で塹壕を掘れば被害が続出するとして否定的だったが、乃木は決然として戦術転換を指示した。 乃木は無理攻めを繰り返したのではない。 失敗に学んでいたのである。 その乃木に9月上旬、強力な援軍が現れた。 参謀本部から28センチ榴弾(りゅうだん)砲が送られてきたのだ。 この巨大砲が、のちに日本の陸戦史を塗り替えることになる--。(毎週土曜、日曜掲載) ◇ 【参考・引用文献】 ○参謀本部編『明治卅七八年日露戦史』 ○桜井忠温『肉弾』(国書刊行会) ○長南政義編『日露戦争第三軍関係史料集』 ○同史料集所収の「大庭二郎中佐日記」 ○同史料集所収の井上幾太郎「日露戦役従軍日記」 ○同史料集所収の井上幾太郎講演録「日露戦役経歴談」 ○佐々木英昭『乃木希典 予は諸君の子弟を殺したり』(ミネルヴァ書房) ※グリーバリスト(新自由主義=共産主義・反トランプ勢力)の嘘つき安倍晋三は乃木希典の能力も技量も度胸も日本人のこころさえ無い! 日本の戦後歴代最悪の総理であるが、嘘つき安倍総理の姿こそ日本の売国政治(戦後の自民党)の真の姿である。 |
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